武夷茶の名声が広まる一方で、需要は生産量をはるかに上回り、産地の定義も曖昧なまま監督体制も不十分だったことが、偽造品が横行する温床となりました。
根本的な原因は供給不足
武夷岩茶の本来の産地は武夷山の岩峰の間に限られており、地形的な制約から生産量は自ずと限られていました。清代の永安知県・彭光斗は率直に記録しています。武夷山一帯では茶が広く栽培されているものの、採取・販売が過剰となり、産出量が天下の需要を満たせなくなったため、商人たちが他の土地の茶芽を武夷に持ち込んで製造し、本物に混ぜて売るようになったと。需要のギャップが生まれた瞬間、偽造には市場としての論理が生まれました。
産地名称の定義が曖昧だった
武夷山周辺百二十里にわたる広い範囲で茶が栽培されており、清代の崇安県令・王梓は『茶説』のなかで、岩峰で育つ「岩茶」が上品、平地で育つ「洲茶」はそれに次ぐと区別しています。しかし近隣の県で大量に栽培された茶葉も、星村の市場に運ばれると一律に「武夷茶」の名で売られていました。名称に法的な保護がなければ、誰でもその名を借りることができたのです。
海外貿易が偽造をさらに加速させた
偽造問題は対外貿易においてとりわけ深刻でした。阮旻錫の『安溪茶歌』によれば、安溪の茶商が武夷岩茶の製法を模倣し、先炒後焙の工程で製茶したうえで市場に混入させ、来航する西洋の商船にまで売りつけていたといいます。武夷茶の国際的な名声を利用することで、国内の買い手だけでなく外国の商人をも欺くことができました。
偽造の歴史は根深い
1753年、崇安県令の劉靖は、武夷山第九曲の星村鎮に多くの茶商が集まり、邵武や江西広信などで産した「江西烏」と呼ばれる茶を武夷岩茶として売る行為が横行していると記録しています。武夷茶の偽造の歴史は少なくとも清代初期まで遡り、長い間根絶されることはありませんでした。
この真偽入り乱れた状況は、やがて地元の茶業団体が立ち上がるきっかけとなり、二十世紀初頭の国際品評会で本物の実力を証明することへとつながっていきます。武夷茶がいかにして混乱のなかから名声を取り戻したか、その物語もぜひ読み進めてみてください。
