今日の賑わう大稲埕老街を歩くと、かつてこの地がただの「稲を干す広場」に過ぎなかったとは想像しがたいでしょう。しかし、日本統治時代の26年間、この地にあった一つの小さな郵便局が、大稲埕が農業集落から台湾の茶業の中心地へと変貌を遂げる過程を静かに見守っていました。
その前身である「大稲程郵便電信支局」は1896年に設立され、その後7度の改制を経て、1923年に「台北港町郵便局」として正式に名を改めました。この郵便局は、大稲埕地域における近代的通信サービスの出発点であり、同時に台湾茶業黄金時代における不可欠な商業中枢でもありました。郵便業務に始まり、電報配達、貯金業務、さらには公衆電話の設置まで、機能が拡充されるたびに、大稲埕の商業繁栄の深まりが反映されていきました。
郵便局の度重なる制度変更の背後には、大稲埕社会・経済の重要な転機が存在します。この26年間の変遷をたどりながら、農業拠点から台湾の茶業ネットワークを世界へとつなぐ通信拠点へと変わっていったプロセスを詳しく見ていきましょう。
稲干し広場から茶の都へ:大稲埕の変貌
「大稲埕」という地名そのものが、地域の起源を語っています。「埕」とは、農民たちが稲を干すために使っていた広場のこと。日中は稲を干し、朝には野菜などを売買する市場としても機能していました。
そんな素朴な農村地帯が、対外貿易、とりわけ茶葉の輸出の発展とともに、地理的条件と港湾機能を活かして艋舺に代わる新たな商業都市へと成長していきます。商人が集まり、通信インフラの必要性も高まっていきました。
このような背景の中で、日本政府は1896年、大稲埕に郵便電信支局を設置。新たな経済活動を支えるための通信基盤がここに築かれたのです。
1896年:近代通信の幕開け
明治29年(1896年)4月20日、「大稲程郵便電信支局」が正式に発足し、同時に「為替貯金業務」も開始されました。これは現代の送金・預金サービスに相当するもので、長距離取引を行う茶商にとって大きな安心と利便性をもたらしました。
この設立は、日本政府の近代化政策の一環であると同時に、大稲埕の商業規模がある程度成熟していたことを示すものでもあります。
機能拡充:商業ニーズへの対応
商業活動が活発になる中で、郵便局の機能も次第に拡充されていきます。1909年11月1日には「郵便出張所」へ改制され、より専門的な業務体制が整えられました。
1914年7月31日には、電報配達業務を開始。当時最速の通信手段であり、海外市場の動向を即時に把握できるこのサービスは、茶商にとって極めて重要でした。
1917年6月23日には「貯金特別払戻業務」が追加され、より柔軟な金融取引が可能となりました。
港町時代:茶業黄金時代の証人
1922年4月1日、「台北港町出張所」へと名称変更。「港町」の名は、この地が台湾最大の茶葉加工・輸出拠点であることを象徴しています。
当時の大稲埕には、福建からの茶師、外国人バイヤー、地元の買弁など、あらゆる人々が集まり、茶葉の加工・包装・輸出を担っていました。通信はそのすべてを支える柱であり、郵便局はネットワークの中核として機能していました。
1923年2月15日には「台北港町郵便局」へと昇格し、電信業務も併任。翌日には公衆電話も設置され、さらにビジネスの便が図られました。
この26年間の変遷は、台湾が伝統農業社会から近代商業都市へと変貌していった象徴そのものです。