お茶を淹れる時、タイマーを見つめて緊張しながら秒数を数えたことはないだろうか?三十秒、四十五秒、それとも一分?お茶を淹れるには正確に計時し、毎回同じように淹れてこそ「プロ」だと考える人が多い。しかし実際には、毎回の茶湯の味わいが同じ、濃淡が固定されていることを要求するなら、それは一度だけお茶を淹れて何度も分けて飲むのと同じで、お茶を淹れる妙味を欠き、起承転結の多重な楽しみを失うことになる。
茶葉の浸出時間:タイマーで測るものではない
正しい注水動作の後は、茶葉の浸出時間の問題だ。私の経験では:品飲者の好みと口味の濃淡に依るべきで、タイマーで秒数を測るべきではない。
この考え方は、多くの人の「プロのお茶の淹れ方」に対する想像を覆すかもしれない。しかしよく考えてみれば、自分でお茶を淹れて自分で飲むのだから、自分の口味は自分が知っている。友人と楽しむなら、適時濃淡を調整すればいい。お茶の香りを淹れ出すには、人情も理解する必要がある——口に合うことが最も適切で、最も心に響くお茶の味わいは品飲者の心に合わせるべきだ。
毎回違うお茶を淹れる、それが真の楽しみ
毎回異なるお茶を淹れることは、一般的な茶芸の観点から見れば「プロ」ではないかもしれない;しかしどの基準が「プロ」なのか?実際、各人がお茶を飲む濃淡はもともと異なり、自分では薄く淹れたと思っても、飲む人は濃いと感じるかもしれない。
口味は主観、お茶を淹れるのは客観。茶性を掴みさえすれば、高山烏龍茶は香りを際立たせ、茶質の純粋さを突出させることにあるのだから、お茶を淹れる人は「何秒」浸出してから茶湯を注ぎ出すべきかと自己制限すべきではない。
一煎目のお茶:全体の品飲基調を定める
浸出時間を秒数に拘る必要はないとはいえ、一煎目のお茶は特に重要だ。一煎目の茶湯の濃淡、香りの強弱が、全体の品飲過程の基調を定める。
もし一煎目が濃すぎると、品飲者の味蕾が強烈な刺激に占められ、後続の数煎で濃度を調整しても、お茶の層の変化を感じることは難しい。逆に、一煎目が薄すぎると、品飲者はこのお茶への印象が大きく損なわれ、引き続き品飲する興味を失うかもしれない。
したがって、一煎目のお茶の掌握は特に重要だ。茶葉の香りと特色を表現しつつ、過度に濃くしてはいけない。これには淹れる者の茶性への理解と経験の蓄積が必要だ。
一煎目のタイミングをどう判断するか?
それでは、一煎目はどれくらい浸出すべきか?答えは:茶葉の状態を見る。
熱湯が茶壺や茶碗に注がれたら、茶葉の広がり具合を観察する。高山烏龍茶は球状に揉まれているため、完全に展開するには時間が必要だ。茶葉が伸び始め、茶香が漂い始めるのを見たら、それが茶湯を注ぎ出すタイミングだ。
経験のあるお茶の淹れ手は、茶葉の観察、香りを嗅ぐこと、さらには軽く茶壺を揺らして重量の変化を感じることで、茶湯の濃度を判断する。これらはすべてタイマーより信頼できる指標だ。
お茶を淹れるのは生きたプロセス、死んだものではない
茶湯が急須から出る時、湯色で茶の選択が適切だったかを判断できる。茶湯の清澈さが基調で、どんなに濃い湯色でも透明でなければならない。湯色がとても濁っていたら、それは茶に問題があり、茶を蘇らせて鮮やかにすることを考える必要はない。
お茶を淹れるのは生きたプロセスであり、レシピ通りに料理を作るのとは違う。各茶葉の特性は異なり、毎回の抽出時の水温、投茶量が微妙に異なる可能性があり、環境の温度湿度も茶葉の表現に影響する。したがって、柔軟に調整することが秒数を厳守するより重要だ。
起承転結のお茶を淹れる楽しみ
お茶を淹れる楽しみは、毎回異なる表現があることにある。一煎目は香りを展開し、二煎目は味わいが満ち、三煎目は甘みに転じ始め、四煎目は甘い余韻が長く続く......このような起承転結の変化こそが、お茶を味わう真髄だ。
もし毎回まったく同じに淹れるなら、この楽しみを失う。お茶を味わうことは単にお茶を飲むだけでなく、茶葉との対話であり、一回一回の抽出は一回一回の交流のようで、毎回新たな発見がある。
一煎目のお茶が最も重要なのは、それがこの対話の扉を開くからだ。一煎目のタイミングをうまく掌握すれば、後続のお茶淹れは流れに任せることができ、茶葉の特質を毎回少しずつ表現させることができる。覚えておこう:タイマーに縛られず、心を込めてお茶の変化を感じることこそが、お茶を上手く淹れる真髄だ。
