鉄観音は清朝嘉慶年間(1796-1820年)に台湾に伝わり始めました。当時、安溪からの移民がお茶を持って台北で販売していましたが、後に両岸の往来が不便なため、直接茶苗を導入し、台北付近の石碇、木柵山区で試験栽培を始めました。

安溪茶商が開いた茶の道

清末期、両岸にはすでに通商活動があり、安溪人は台北地区への大量移民を始めました。これらの「安溪茶商」は最初、お茶を持って台湾で販売していましたが、海峡の往来が実に不便だったため、移民者は茶苗を導入し、台北付近の石碇堡の魚坑山区で試験栽培することにしました。噶瑪蘭廳誌の記録によると、現在の北宜公路の前身は、百六十余年前に安溪茶商が切り開いた一本の茶の道でした。

移民が持ち込んだ茶種と信仰

1770年代頃、福建省安溪県からの漢人が次々と木柵山丘一帯に開墾に来ました。安溪県はもともと中国の茶郷であるため、安溪移民が台湾に来た際、茶種を携帯する人もいました。木柵の張美加氏は、自分の先祖は安溪にいた時からお茶を栽培しており、台湾に来る時に茶種を持参し、まず士林一帯で試験栽培したが成功せず、後に木柵がお茶栽培に適していることを発見し、士林から木柵に移住したと語っています。

1715年、木柵地区に移民した泉州人は、安溪出身の高、林、張の三姓が最も主要な族群でした。彼らは安溪から鉄観音を持ち込んだだけでなく、堅固な信仰も一緒に持ち込み、集応廟と忠順廟を建立し、今日まで木柵地区の重要な信仰の中心となっています。

洋行が茶業発展を推進

初期の移民が茶種を持ち込んだものの、木柵の茶業を真に繁栄させた鍵は、1866年にイギリス商人陶徳が中国福建安溪から茶樹を導入し、木柵付近で大規模に栽培し、全量を買い取ったことで、農民の茶栽培への信頼を高めたことでした。1869年、お茶は淡水から輸出され、アメリカで販売され、大変好評を博し、これ以降、木柵の茶栽培の黄金時代が始まりました。

それ以来、安溪鉄観音は台湾で「独自の道を歩み」、故郷とは異なる製茶スタイルを発展させ、台湾茶の中で特色ある品種となりました。

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