多くの人がジャスミンを知るのは、一首の歌からだ。「なんと美しいジャスミンの花、枝いっぱいに芳しく咲き、白く香る花を皆が称える……」大陸発祥のこの童謡は、台湾の四・五年代生まれの記憶に深く刻まれている。しかし、この歌がなぜ台湾の小学校の唱遊の定番になったのか、その背景に茶葉貿易と深く結びついた歴史があることを知る人は少ない。かつて台湾北部にはジャスミンが広く植えられていた。そしてその花畑は、包種茶に香りを移すために存在していたのだ。
包種花茶の製造の核心は薫花にある。茶葉そのものの清らかな香りも大切だが、香花を使って薫じることで、茶の層の深みと香りは大きく引き出され、消費者の感覚により強く訴えかけるものになる。薫製に必要な花材は当初、福州からの輸入に頼っていたが、包種花茶が市場に定着するにつれて需要は増し、輸送コストの負担も重くなっていった。台湾の茶商はやがて考え始めた。現地で花を育てて、その場で供給できないか、と。
その発想が、台湾北部の土地の使われ方を静かに変えていった。
茶園の隣から生まれた花畑
文山堡周辺の深坑・石碇一帯は、最も早く花畑が広がった地域だ。これらの花畑は香花への愛好から生まれたのではなく、純粋に商業的な必要から生まれた。素茶の薫製に使う花材を供給するためだ。深坑・石碇はもともと包種茶の重要な産地でもあり、茶園と花畑が隣り合って広がる独特の農業景観が生まれた。
花材の選択は当初、クチナシが中心だった。合興茶行の王登氐が台湾で初めて薫茶を試みたときに使った花材がこれだ。需要の拡大とともにジャスミンが主要な花材となり、秀英・玉蘭・樹蘭など複数の香花も加わり、多様な花材の供給体制が整っていった。『臺灣通史』には、英国人のドッドが農民に花の栽培を勧め、ジャスミン・素馨・クチナシなどの芳しい花は一甲あたりの収益が千圓にも達し、茶の栽培より利益が高いと指摘したことが記されており、艋舺・八甲・大龍峒一帯では香花の栽培を生業とする人々が増えていったとある。
花を育てる方が茶より儲かる?
『臺灣通史』のこの記録は、興味深い現象を示している。包種花茶の輸出が盛んだった時代、香花栽培の経済的な見返りが茶の栽培そのものを上回っていたというのだ。これは、香花栽培業が茶業の付属物ではなく、包種花茶の産業チェーン全体の中で独立した重要な地位を占めていたことを示している。
花農と茶農の間には、互いに依存し合う関係が生まれた。茶農は市場で競争力のある包種花茶を作るために花農から十分な花材を得る必要があり、花農は茶商の継続的な買い付けがあってこそ花を育てる経済的な動機を保てた。この共生の構造が、台湾北部の農業の姿をその時代において独特のものにしていた。茶と花、それぞれが育ちながら、緊密に支え合っていた。
三色花茶:花材の多様化が行き着いた先
包種花茶が南洋市場に根付くにつれ、消費者の好みもより洗練されていった。1900年以降、オランダ領東インド各地の消費者の間では「三色花茶」が最も価値の高い品として珍重された。三色花茶とは、クチナシ・ジャスミン・秀英の三種の花でそれぞれ薫製した茶を混合して販売するものだ。
三色花茶の登場は、花材の多様化が極致に達した表れであり、香りの層に対する消費者の期待が高まった結果でもある。一種の花による薫製にはその純粋さがあるが、三種の花香が重なり合い溶け合うことで生まれる豊かで複雑な感覚的体験こそ、南洋の消費者が求めていたものだった。その市場の要求に応えるため、台湾北部の花材栽培も種類を増やし、品質の安定した香花原料を供給し続けなければならなかった。
花畑が消えた後
包種花茶の輸出の盛況は、永続しなかった。1931年以降、インドネシア自身の茶業が発展し、さらに満州事変後の華僑による日本製品の不買運動が重なり、台湾の包種花茶の南洋での販路は年々縮小していった。輸出量は民国十四年から十九年の年間三百万キログラム超の最盛期から、民国二十九年にはわずか四万七千キログラムにまで落ち込み、民国三十年以降はほぼ完全に途絶えた。
花材への需要も急激に落ち込み、かつて深坑・石碇の丘を覆っていた花畑は、この産業の衰退とともに静かに姿を消していった。台湾北部にかつて存在した香花栽培の盛景は、今日その土地の上に面影を見つけることはほとんどできず、残るのは文字の記録と、わずかな歴史的な器物だけだ。
ジャスミンは一首の童謡として台湾で何十年も歌い継がれてきた。しかし台湾北部の農業と茶業を深く動かした経済作物として、この土地に刻んだ物語は、もっと完全な形で記憶されるべきだろう。かつて香りを漂わせていたあの花畑は、包種花茶の黄金時代を最も真実の形で映し出した風景の記憶だった。
